午後になったらガスってきました
午後になったらガスってきました

 山頂からの陸奥湾展望を見たく藪覚悟の「清水股岳」も、林道の破壊が以前より進み「登山口」までの体力消耗と崖を下る元気なく登はん断念。現在は県道から2kmの崖崩れ箇所が、さらに酷くなり車両止め看板が。MTBでも下車回数多く、途中でデポした。登山口の看板から丸太橋へのアプローチは、崖崩れが酷く降りれる状態になく遠くに見える登山道が恨めしい。慣れ親しんだ「登山口看板」が朽ち果てるのも寂しい。

 外ヶ浜町蟹田中小国の「清水股岳」登山の度に、「たたら、たたら」と呪文の様の呟いてた「たたら(製鉄炉)遺跡」の概要が漸く分かってきた。弘前城(高岡城)の築城に要した「釘」はここ蟹田から供給されていたのだ。  その基礎を築いたのが、私の住まう青森市大野片岡の発祥の歴史に深く関わった青森開港で有名な「森山弥七郎」とは益々、興味わくところである。

                                       (以下は平成3年に上梓された「蟹田町史」からの抜粋です。

 

【蟹田の鉄吹き】P295~

      「高岡築城と蟹田の鉄吹き」

 津軽藩を創設した為信は慶長八年(千六〇三)、当時高岡と呼ばれていた地に大規模な築城を開始した。しかし為信の時代にはあまり進展がみられず、本格的な築城は慶長十五年二月から二代信枚によって着手され、五層の天守閣の聳(そび)

える高岡城(弘前城)は完成した。

 ところで、この築城に要した鉄を供給したのが蟹田であり、その基礎を築いたのが青森開港で有名な森山弥七郎であった。

「津軽一統志」に

 一、五重の天守並櫓所々御門入用の鉄炮大分の儀故、森山内蔵之助兼て命を承り、外ヶ浜小邦蟹田始て鉄を吹く、此の時森山吹挙し南部鉄吹の者百三十人余呼越し、此       

    時まで入用の鉄南部より買取り用ゆると雖(いえど)も、多領の産御遠慮の旨これ有り、始て此れ御結構に及ぶ。

とある。

  これによると天守閣や櫓、門を造るために大量の鉄が必要なので、森山弥七郎は藩命を受けて南部の鉄吹の者千三百余名を呼び込み、小国・蟹田で始めて鉄を製産したことがわかる。

 

【旧跡・藤ケ股沢の製鉄遺構】P 1472~

 山本集落の中央辺とおぼしきあたり、北に向かって伸びる農道をゆくとやがて道は二つに別れる。右が「清水股沢」、左方が「藤ケ股沢」である。左方に進路をとり、藤ケ股沢川沿いの小径を約」1,500mほどのところに砂防堰堤があり、この右岸付近に

夥(おびただ)しく鉄滓が散乱している。大きさは大人の挙大のものが多い。遺構は工事によって破壊されたか、土中に埋没したらしく痕跡は窺(うかが)え得ない。

 これより竹藪の小径を行くこと約500mほどで約30年ほどの杉の植林地に行き当たる。この川岸近いところに炉心とおぼしき盛土跡があり、付近には広範囲にわたって鉄滓と木炭の小片が散乱し、やや離れた位置に水路らしき構跡がある。ここを藤ケ股のタタラ跡といい、俗称地名は銅屋である。

  さらに本遺跡跡についての古老の言い伝えによると、昔「祠」があり、南部方面からの人々が来て集落の人々とは没交渉的に彼等だけで居住し、出来上がった製品は「牛」を使用して運び出していたとのことである。

【清水股沢にも製鉄遺構が?】P1475~

 古老の言によると清水股沢にも製鉄遺構が現存するという。先年この沢へ七百メートルほど入った位置に川岸の南岸をくり込んだ製炭遺構が発見されている。当時の鉄吹きは一トンの鉄を取り出すのに三トンから五トンもの木炭が必要であり、製鉄には豊富な森林、つまり木炭用原木、炭焼き職人が深い関係をもっていた。三トンから五トンの炭というと四貫俵にして二、〇〇〇から三、〇〇〇余俵にもなり、これだけの炭を生産するには数百町歩の山林を伐採しなければならなかったので鉄山は約一〇年で沢を変えねばならなかったと伝えられる。

 

                 ・付記 「蟹田の名松 鍛冶屋の一本松」 蟹田小学校近くに移転

 

「森山弥七郎供養碑」


 「青森市の歴史上の人物」をひとりあげるとすれば、誰が思い浮ぶでしょうか。なかなか思い 当たらない…かもしれませんが、森山弥七郎をあげる人は少なからずいるのではないかと思います。彼は、藩政時代における青森町のまち作りに尽力した人物と言われています。そして、青森の町づくりは明治時代の末期頃から「開港」と表現されることが多いので、彼は「開港の恩人」 などと形容されてもいます。 さて、森山弥七郎という人物は、油川の浄満寺に「元祖森山弥七郎」と刻まれた供養碑があり、 「弘前藩庁日記 御国日記」(以下、「国日記」)に寛永 3 年(1626)4 月 6 日付で 2 代藩主津軽 信枚が「青森の町立て(まち作り)」を指示する文書の写しがあり、そこに「森山弥七郎」と記 されていることから、実在しています。 ところが、彼の没年はさきの供養碑に刻まれた日付から寛文 6 年(1666)2 月 3 日とされてい ますが、「国日記」で寛文 6 年 2 月に亡くなった森山姓の人物は「内蔵之助」なのです。弥七郎 と内蔵之助は果して同一人物なのでしょうか。 これについて、『青森県人名大辞典』(東奥日報社、1969 年)は「森山内蔵之助信実」と項目 を立て、弥七郎は「幼名」としています。幼名を国語辞典でいうように「元服以前の呼び名」と 解釈すると、幼くして亡くなったのであればともかく、供養碑に幼名を用いるのは不自然である し、「国日記」の寛永 3 年は通説によると森山はすでに 50 歳を過ぎているので、ここも幼名表記 は考えにくいのです。ですから、「弥七郎幼名説」は成り立たちません。 もうひとつ紹介すると、『青森市史』人物編(青森市、1955 年)は「森山(内脱-引用者注) 蔵之助弥七郎」としています。これについては史料表記上確認できず、さらに「国日記」では、 寛文 4 年から内蔵之助とは別人の森山弥七郎という人物が現れるので、「(内)蔵之助弥七郎説」 も蓋然性は低いと思います。なお、内蔵之助と弥七郎は親子関係にあると見立てています。もち ろん、この弥七郎が私たちの知る森山弥七郎とするには、史料に登場する時期が遅いと思います。 このように、弥七郎と内蔵之助は同一人物と目されているのですが、その説明は合理的ではな いのです。ただ、私もふたりは同一人物であるとみています。しかし、その理由は今回紹介した ふたつの説とは異なります。これについては来年、最近みつけた史料の紹介とともに申し上げた いと思います。

 

  ※ この供養碑は当初、油川村の寺内野(現在の青森市立油川中学校校庭付近)に建立され、昭和10年(1935)青森飛行場建設により野木和公園入   口付近へ移転された。その後、昭和23年(1948)に油川町民の手で現在の浄満寺境内に移されたものである。

                                                                              青森市HPから・工藤大輔・青森市民図書館歴史資料室長

 龍飛崎の帰路、シクロバイクで息切らす「高野崎」の急坂。距離も高度も大した坂でないが、初めてロードバイクで挑戦したら意外にスムーズ。余裕で急坂登り、坂途中の「海峡の家ほろづき」偵察。