青森県の遺跡発見第一号となった!!(昭和8年11月19日)

 

 縄文時代の墓は、一般的に地面に穴を掘って埋葬したものが多いが、縄文時代後期前半に特殊な埋葬方法が現れてくる。その方法とは、遺体を一度土葬して、再びその墓を掘って骨を取り出し、それを甕形かめがた土器に入れて再埋葬するものである。考古学ではそのように埋葬された墓を、『再葬土器棺墓さいそうどきかんぼ』と呼んでいる。

 国道4号線東バイパス久栗坂トンネルの上に山野峠さんのとうげ遺跡があるが、昭和8年に峠の東側斜面から、12個の甕形土器が石室に入った状態で発見され、そのうちの6個から人骨が発見された。人骨は大人のもので、しかも火葬されたものではなかった。その後、西側の斜面から平石を組み合わせた石棺墓が、一列になって7個発見された。このことから、遺体は最初この石棺に埋葬され、のちに甕形土器に収められて再埋葬したものと考えられた。
 倉石村薬師前やくしまえ遺跡で発見された再葬土器棺内部の人骨は、一番奥に頭骨があり、それを囲むように腕と脚の骨が立てかけられていた。その様子は、あたかも出産間近の母胎内の胎児の姿勢に似ていた。
 『再葬土器棺墓』は、土器を母親の胎内に見立て、人骨を胎児の姿勢に組み立てて再埋葬していることから、縄文人が、死者の再生を希求した行為と考えられている。また、この特殊な埋葬方法は、村の指導者など、特別な身分の人の死に際して行われたと考えられており、これまでのところ青森県を中心に秋田・岩手両県北部で多く発見されている。
                                        【考古部会執筆編集員 葛西勵】

                                   ※『広報あおもり』1998年9月1日号に掲載

                                       

                                 ※ 現地「山野峠遺跡 」は保存の為、埋め戻され目印他なく平地で視認できません。                                      

「小牧野遺跡保護センター」で展示されている「山野峠遺跡」の石棺と土器棺


昭和8年、国の救済事業のひとつ山野峠への道の拡張土木工事。この工事がきっかけで山野峠の遺跡が発見された。(昭和8年11月19日)青森県の遺跡第一号となった。(根川 八郎氏アルバムより)

遺跡から発掘されたときの復元作業。(赤川セツ氏所蔵)



「山野峠」近くまで畑が耕され樹木も伸びておらず林道がくっきり見える。丸印地点が「山野峠遺跡」の発見された場所。(昭和45年5月・堤 正義氏撮影)

(昭和34年5月21日東北測量社撮影)


遺跡付近の根精様「祠」    

石室の中にアイヌの厚手土器があり沢山の人骨が見られた。又、野内では古銭や大きさ7寸くらいの「金精様」も見つかった。土器はアイヌとの交流からまねて作られ「洗骨埋葬」はアイヌには見られない風習。


(上記一部写真は撮影から60年以上経過していますが、著作権等不明の為近日削除します)