沿革
 浅瀬石城は、中世南部氏の一族、千徳氏11代350年余の居城で鎌倉時代の中頃(13世紀)千徳伊予守行重が築城したと伝えられている。
 文明年問(1470年の頃)7代城主、千徳政久は三戸南部氏よリ領地を安堵され津軽一円の代官として栄えた。戦国時代(16世紀の末)には10代城主千徳大和守政氏が大浦(津軽)為信と同盟を結び共に津軽平定に活躍したが、11代千徳政康のとき為信との同盟が破れ慶長2年(1597年)2月28日大浦勢の攻撃を受け落城して廃墟となる。
 当時の浅瀬石城下は多ぐの神社仏閣が軒をならべ家中侍屋敷530軒余市街地1230軒余近在の家200軒余の城下町であった。

じょんから節発祥の由来
 慶長二年(1597)二月、浅石城が大浦(津軽)為信の軍勢に攻められた
戦いは浅石側の悪戦苦闘が続き、次第に劣勢が明確になってきた。神宗寺ゆかりの辻堂で、常緑和尚は主家千穂家の位牌に手を合わせ、味方の必勝を祈願していた。
 二十八日の早朝、常縁和尚が心魂込めて祈っている場へ大浦の軍兵が乱入し、乱暴狼藉を働いた。和尚はこらえ切れず、山伏姿となり、散乱している位牌を拾い集めて背に付けて応戦した。しかし、力及ばず血路を開いて東の山根へ逃げ延びた。追いすがる軍兵に捕らわれそうになったので、ついに主家の位牌と共に、白岩の断崖から浅瀬石川の濁流に身を投じた。
 夏になり、川原で水遊びをしていた子どもたちが、砂の中から変わり果てた常縁和尚の遺体を見付けた。村人たちはお墓をつくり手厚く葬って、常縁の墓と名付けたことから、この川原一帯が「常縁の川原」と称された。
 お盆になると、村人たちはこの川原に集い、盆踊りに即興の唄を添えて千徳家や常縁の霊を慰めた。
 その唄は、昔の様子を偲び、切々と嘆きが伝わってくる「口説き節」として表現された。それが「常縁の川原ー常縁川原ー上川原(じょうがわら)」から発生した「じょんから節」と、古くから伝えられてきている。